修行の百日間

 

ここのホームページに

自分でするごくごく簡単な修行方法を記しているが

いったい実際にやっている人は果たしているのだろうか?

 

あまりにも簡単すぎて

やる気にもならないだろうと知っていて

あえて載せた、ということもある

 

 

現実には 実際にやってみないことには

絶対にわからない

これは、修行すべてにおいて言えることだと思う

 

『修行』と言うと 

山伏のそれを思い出し

崖っぷちから半身を乗り出してみたり 

火渡り、滝行などの荒行を想像するが

 

普段の生活の中でおこなう修行は、

自分自身との約束がものをいう

 

いつだってやめるのは簡単だが、

100日なら100日を淡々とこなしてゆく精神力が要求される

 

あのあまりに簡単な修行内容を見て、

100日間も必要ないと思った人が多いと思うが

 

実際に始めてみると、

100日間でどれほど近づけるだろうと

考えが改まる

 

一日でも休めば

振り出しに戻らなければならないため 

うっかり忘れないように緊張感もある

 

たった一日間、

うっかり忘れたからと言って 

たいした違いはなかろうと ふつうは考えるが

 

これが大ありで、

ひとつひとつを積み上げていっても、

たった一つの煉瓦が抜けただけでそこから水が漏れるように

 

たった一日が抜けただけで完成しないのだ

 

これは、実際に体験してみないとその実感はわからない

 

私は天霊術という百日行を何回かやっているが

三回めに修行を始めたとき、続けることができなかった

 

たった一日 うっかり忘れただけで 

その後の修行がガタガタになってしまったのだ

 

自分で 三回目だという驕りがあったのは否めない

 

時を置いて

改めて三回目を行ったときは

謹んで緊張しなおして100日間を過ごした

 

それは精神的なものではない

 

 

手の中にあったものが消えてしまった、という状態だった

 

続かなかったのはそれだけではない

 

もうひとつ、続かなかった修行があった

 

それは、激しい天霊術に比べれば、

あまりに簡単で、日数も百日でなく、四十九日だった

 

毎日簡単だと思ってやっていたがうっかり忘れてしまった

 

それでもめげずに続けようと思ったが続けることが出来なかった

 

体力的にハードで時間も必要な天霊術に比べて、

やろうとしているのにもかかわらず、

一日にたった10分間の修行が続けられなかった

居ずまいを正してやり直さねばならなかったのは言うまでもない

 

大江文披が日向の山中で修行中

神仙の教えは修練服食長生不死をもって極要とするものではなく

ただ清浄無為の真一を大悟することにあることを 

異人によって教示されたという

 

大変さではない、時間でもない

やろうとする者の姿勢が真摯なら

修行内容はそれほど問題ではないのだろう

 

実際わたしがやってみた中では 簡単そうに思えたものが意外に難しかった

 

目には見えなくても 確かな手応えがあるからやっていておもしろい

その手応えが 今まで確かに重さも感じ圧力も感じていたものが

抜けてしまった時は すかすかという感じで空虚だった

 

修行にはさまざまな約束事が伴う

それを無視して「おいしいところだけ」修行するのも勝手だ

しかし 結果として手に入れられるものが全く違うことに気がつくことはない

 

修行は結果が伴うが、

結果を追い求めることに執着するのではなく 

修行そのものを味わって続けることが楽しい

 

そして修行が完成されたときに、見えるものがある 

それもまた楽しい

 

簡単なものの中に

深い深いものが隠されていることを

頭ではなく、全身で感じることが出来たときに、

人生が大きく動く

 

 

2003.12.27