天翔 

 

 

 

天翔修行について

いつも言葉に迷う

 

修行をすると、どうなるのですか?

 

そう聞かれると

説明しなければならないと思うが

 

本当は

答えは、自分で得るものなのだ

 

そう言葉で表現するのはたやすい

しかし

それは、修行を経験した者でなければ

その意味が本当にはわからないので

なんとも、なんとも・・・

 

 

 

 

昨日と、薄紙一枚違う自分

 

昨日から明日へと続く途中にいる自分

 

今を生きている自分

 

 

 

天翔修行をすると

誰でも共通して得られるものはある

 

自分に対する確信だったり

不動心だったり   ・・・まぁ、いろいろ

 

 

しかし

言葉を尽くしても、どれも本当は遠い

 

空に月がかかるのを知り

自分の心が水面に映るのを知る

 

崖の向こうには、こういうふうな景色が広がっていますよと聞いたところで

崖っぷちまで行って

のぞき込まなければ、何も知ったことにはならない

 

 

 

世の中には さまざまな修行がある

人によって好みの方向はそれぞれだから

それぞれのステージで 人生を味わう

 

 

天翔初伝は 考える隙間を与えない

感じることさえ、難しい

 

一心に修行をすることに

どんな意義があるのか

 

そんなものに意義などない    ・・・誤解を恐れずに言えば。

 

では、目的があるのか?

 

誰でも、目的や目標を持たなければ

修行などに手を染めないが

きっとそれは途中でどこかに消え去ってしまう

 

 

何も思わず、何も感じない ことを感じる?修行

 

何も受け取らない

何物をも 得ない

 

そしてそれが 確実に自分を変えてゆく

 

これこれこうだ!というものは何も無い

ただ、いつのまにか変化している自分に、いつか気づく

 

 

“ご利益”のあることに いつのまにか慣らされているので

結果<あるいは“成果”>を約束されないと 人は足を踏み出さない

 

しかし

何の気なしに と言うべきなのか

なんの約束もない、なんの成果も約束されないものを

やってみようと思う人は

よほど、人生の“そういうところ”まで さしかかっているのだろうと思う

 

成果はある

ただ 目に見えない

 

それどころか 

どうなった

という概念さえ もつことがむずかしい

 

 

海のものとも

山のものとも

わからずに修行をした道士たちは たいしたものだと思う

 

 

縁があったのだろう   <それさえ、言うことは たやすい>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2004.6.20