洗脳 

 

 

 

自分だけは・・・と

鳳翔自身、思っていた時期があった

 

しかしよく考えてみると

ものすごく洗脳されている

 

仲の良い友達が、オイスターソースはリキンキがいい、と言えば

リキンキを買い

ドトールはミルフィーユがおいしいと言えば、毎回ミルフィーユだし

リン・サクライの化粧品がいいと言えば、きっといいんだろうと思う。

 

 

それは『情報元』にもよる

 

ふだん仲がよく信頼している人からの情報であれば

よほど自分の方が精通してない限り、その通りだと思うし

 

ふだんから何となく好きになれない人から

あれは抜群に性能がいい!と言われても、

本当〜?と 尻上がりに心の中でつぶやいている。

 

みんなが並んでいて、なかなか買えないケーキをもらえば

ことさらおいしく食べられるし

その量が、少なめだったりすると、さらにおいしい・・・

 

以前、クラブ・ハリエの一番小さいサイズのバームクーヘンをもらったことがあって、

世の中に こんなにおいしいバームクーヘンがあったのかと感激した。

 

銀座三越まで行かなければ買えないと聞くと なおさら食べたいなと思い

機会があったとき、

こんなにおいしいものなら親しい人たちにも食べてもらおうと

しこたま(もちろん自分の分はたくさん)買いこんで帰ってきたことがあった

 

冷蔵庫にも予備の分を入れて

さぁ、食べようと、わくわくしながらナイフを入れた。

 

ところが、あれ?と思うくらい、あの『感動』がない

 

おいしさが変わった訳ではない

それなのに、自分の心が変わってしまった・・・(おおげさなようだけど)

 

いくらでも食べられると思うから

有り難みが無かったのも確かかも知れない

その上、今では インターネットで注文できる

そうなると、もう、めったに食べたいと思わなくなった・・・σ( ̄∇ ̄;)

 

昼間は、いろいろな売り込みの電話がかかってくる

大抵は相手が知り合いではないと分かった時点ですぐに断るが

ほんのちょっとのタイミングや

相手のしゃべりかたの、ほんのちょっとの何かで、

ついつい相手の話を聞いてしまうことがある

 

そうやって営業マン?(中には『お掃除』と称して違う形もあるが)がくれば

必ず『その気』になってしまう鳳翔がいる ・・・(ーー;)

 

 

 

一般的に 世の中は 【活字】に弱い

【活字】が これこれこうだ!と断定すると

なるほどそんなものかと思う

 

そして【メディア】に弱い

『ニュース』で報道すると、それがすべて事実だと思う

コメンテーターの意見を あちらの番組、こちらの番組、比べてみては

それを批判している自分は大丈夫だと思う

 

小泉首相が就任したとき、

「純ちゃん人形」や「まきちゃん人形」を買った人は

いま、それをどうしているのだろうか・・・

 

 

 

割り箸は地球の資源を無駄にするから

「マイ箸」を持って歩くのがオシャレ、と報道されたことがある

あれは、端材を使うので森林保護になる、という意見のもとに消えてしまったが。

 

廃油で石鹸を作る、というのも

自然保護を目差す主婦グループにずいぶん支持されたが

石鹸を作る過程で使うカセイソーダが猛毒で環境を破壊するということで

またたくまに下火になった。

それを知ってか知らずか、いまだに廃油石鹸を作り続けているグループもいる。

 

 

 

「すなおさ」と「洗脳されやすさ」の境界線は、どこにあるのだろうか?

 

「オレオレ詐欺」に簡単にひっかかる人にあきれながらも、

人の意見に耳を傾けない意固地さを嗤(わら)

雑誌の記事をチェックして有名店の行列に並ぶ

 

なにが自分で、どこからが他人の意見を土台にしているか

初めから境界線など無い。

 

行列に並ぶ人は

多くの人がうまいとおもうものは

やはり最大公約数を満たしているのだろうと思う

 

 

 

『じぶん』というものは

今まで体験してきた、今まで見聞きしてきたものの価値観で成り立っている。

 

「さ志まや」のせんべいがうまいと思う者は

誰かが「雷門」のせんべいがうまい、と言っても

やはり「さ志まや」のせんべいをうまいと思う。

 

 

 

『洗脳』とは、専門的にはどうなっているのか知らないが

一般的なイメージでは

マイナスな結果を伴う、偏った情報を鵜呑みにして

深く信じ込む、といったところだろうか。

 

女同士、仲が良いと化粧のしかたが似る、と聞いたことがある。

 

そしてそれは、「影響しあう」、というのだろう。

 

なにが、【影響】で なにが【洗脳】かは

それが 反社会的かどうか、という基準かもしれない。

 

自分にとって、都合がいいか悪いか、簡単に言うとそうなる。

 

 

 

偉大な芸術家にあこがれるまでもなく

日頃あこがれて尊敬している人の影響は受けたいし、

その素晴らしい考え方を身につけるためにすすんで洗脳されてみたい

 

 

あとで、その情報が間違っているよと教えられても

いったん自分の中に取り入れたものは、自分自身となっているので

なんの義理も無いのに、

自分の心の中で かばってしまったりする

 

 

もう何年も前のこと、

とても仲の良かった友人が、

子供の問題で悩んで、夏の間、『Y農場』に預けたと言っていた

「Yイズム」が問題になっているのは知っているが

近所の体験者の話も聞いて、

この子のためには、それがいいかと思って預けた、 というような内容だった。

結果は、良かったと思う、とも言っていた。

 

その時は初耳だったが、その後「Y農場」のトラックが走っているのを見かけたり

宗教カルトと並んで問題にされているのを知ったが、

どこか 「Yイズム」は それほど悪くないんじゃないか、と思っている自分がいる

 

現実には、被害にあった、と思っている人がいるのは事実だし

その数が多いから、社会問題にも取り上げられるのだろうけれど

わたしの信頼する友人は「良かった」 と言った、ただそのことだけのために

悪くないんじゃないか、と なんとなく思っているわけだ。

 

これが現実にそれを体験していれば

もっとそれを肯定したくなるのだろうと思う。

 

洗脳とはなにか。

体験とは何か。

 

 

この世のすべては夢のようなものだと 言う人もいる

 

自分が現実と思っていることが実は

夢の中の現実に過ぎないかもしれない、などと言われる

 

まぁ、たとえ夢であっても

この世界に生きている限り、『生きる』ということに全力投球していこうと思っているが。

 

 

人生は『錯覚』と『思い違い』に満ちている。

 

愛は『錯覚』と『思い違い』に満ちている。

 

人生を愛で満たそうと思えば、『錯覚』と『思い違い』に満ちていてもいいかもしれない

『洗脳』と『勘違い』でもいいのかも知れない

 

どこがまずくて、どこがいいのか

人生には なんにも境界線が無くて 迷うことも多い

 

なんでもあり! と思うのもいいが

やはり、よりよく生きたいと思えば、その都度、迷い、判断し、

後悔したり反省したりするときもあれば、幸せをしみじみあじわうこともある。

 

 

 

 

どんな聖人君主でも迷い惑う。

 

正解が無いからこそ

その価値観の転換が自分に起こったとき

覚醒したとも思い、宇宙を見たとも思う。

 

 

ここまで来た。 とほっとしたかと思えば、

あぁ、まだ先があるのか、と 見上げてため息をつくこともあるかもしれない。

 

あぁ、まだ先があった!と 喜んで歩き出すのかも知れない。

 

 

今はどこにいても

 

周りの風景を楽しみ、

どこまで行っても終わりの無いだろうこの道に

 

『じぶん』という記念樹を植えよう。