放鬆と入静
<放鬆(ほうしょう)>は、たくさんのサイトで解説しているが、簡単に言うと、余分なチカラをいっさいかけずにリラックスするということになるだろうか
<放鬆>は脱力ではない。
よく自転車を例に出すのだが、
自転車の乗り始めのころは体にチカラが入って緊張し、かえって不安定だが慣れるにしたがって何も考えず体はバランスを取り、足はペダルをこいでいる。つまり、決められた形の中で余分なチカラはいっさいかかっていない。
氣功では<放鬆>と呼んでいるが、
氣功に限らず どの世界にも放鬆はある。
無心に花をいけているときも<放鬆>であり、ボクシングの選手がリングの上で相手にうまくパンチが入ったときも〈放鬆〉の状態にいる。
そして、〈放鬆〉の状態になることによって
〈入静〉の状態に入るという。
〈入静〉とは、これもまた さまざまは解説があるが、
どれも、「これが入静についての解説の決定だ!」とは言っていない。
それほど〈入静〉の定義は難しい。
というよりも、表現しにくい、というべきだろうか。
入静はある一種の精神状態(その時の脳の状態はα波)を指す。
心ここにありながら、心ここにあらず。
その時の自分は、意識がはっきりと研ぎ澄まされて、
意識が広がってゆき 一種独特の心地よさに心身をゆだねる。
禅では「禅定(ぜんじょう)」と言うそうだが
その状態から『我に返る』と、
それまで自分が別の次元の世界に精神状態があったことがはっきりと判る。
気功法は〈入静〉を目差しているといってもいい。
入静状態も 浅い状態から深い状態まであるが、最近の研究によると 脳の細胞が覚醒し学生なら知能・学力がアップすることがわかっている。
氣功をおこなうことによって超能力が目覚めるというのは、ここから来ているのではないかと思う。
〈入静〉状態になると
心はおだやかに安定し、心がひろがってゆく感覚がある。
そしてそれを繰り返すことによって日常生活にも変化が起こる。
今まで自分の裁量の狭さから受け入れられなかったことが受け入れられるようになり、身構えることがなくなり、心がいつもおだやかで安定するようになってくる。
それは一朝一夕では現れないが、ふと気がついてみると今まで腹が立っていたようなことに腹を立てなくなっている自分に気づくことがある。
他人に対して身構えることが少なくなるので 人間関係も変わる。
よく「頭に血がのぼる」というような言い方をするときがあるが氣功を練功(練習)することによって ”氣”がいつも丹田にあり、頭に”氣”がのぼらないようになるので、そういったこともなくなってくる。
なによりもまず、〈入静〉という自分だけの世界を手に入れることによって世界がすっかり変わってしまうのだ。
氣功の功法を独りでやるのもよいものだが、氣功教室のようなところで、何人もの人が集まってやると、誰かひとりたまたま飛びぬけて出来たりするとすぐに全員がそのレベルにあっという間に到達する。
〈入静〉のあと、夢からまだ覚めやらぬような表情で
お互いに視線を交わして微笑み合う。
2003.12.17
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